きびだんごの歴史や名前の由来は?岡山名物になった経緯・吉備国や黍・桃太郎との関係も紹介
「きびだんご」とえいば、岡山名物として全国的に有名ですよね。
そして、きびだんごといえば桃太郎の童話のイメージもあるのではないでしょうか。
でもよく考えてみると、なぜ「きびだんご」というのか知っていますか?
また、きびだんごはいつからあるのでしょうか。
桃太郎と本当に関係があるのかどうかも気になりますよね。
そこでこのページでは、きびだんごの起源や歴史、名前の由来などについて紹介します。
きびだんごの名前の由来
きびだんごは、漢字の表記だと「黍団子」と「吉備団子」の2種類があります。
黍団子は、文字どおり穀物の黍(キビ)を主原料とする団子です。
日本ではかなり古くから食べられています。
いっぽう吉備団子は、現在の岡山県岡山市で生まれたもので、黍団子を改良した和菓子です。
岡山市を代表する銘菓として、とても有名ですね。
吉備団子の名前の由来は、以下の理由を組み合わせたものです。
- 岡山市は「吉備国(きびのくに)」の一部だった
- 吉備国の総鎮守・吉備津神社(きびつ じんじゃ)にゆかりがある
- 黍団子を改良した菓子である
なお吉備団子は黍団子を改良したものといっても、吉備団子と黍団子はかなり特徴が異なっているのです。
菓子店によっては、原材料に黍を使わないものもあります。
そのため現在では、吉備団子と黍団子は別の菓子だといえるでしょう。
ちなみに北海道を中心に「きびだんご」という駄菓子もあります。
これは童話『桃太郎』に出てくるきびだんごをモチーフにしてつくられた駄菓子です。
このページでは、以降は岡山銘菓として知られるきびだんご(吉備団子)について紹介していきます。
きびだんごの特徴
岡山銘菓のきびだんごは、求肥餅(ぎゅうひもち)の系統の和菓子です。
糯米(もちごめ)粉・上白糖・水飴(みずあめ)として、風味づけに糯黍(もちきび)粉を混ぜて生地をつくります。
そして湯炊きして半透明になるまで練り上げ、団子状に丸めて表面に片栗粉をまぶしたのが、きびだんごです。
なお、なかには黍粉を混ぜないきびだんごをつくる和菓子店もあります。
きびだんごの見た目は淡い黄色みを帯びているか、白っぽい色をしているのが特徴です。
また、表面にきな粉をまぶしたものもあります。
きびだんごの起源と歴史
岡山銘菓として知られるきびだんごですが、起源はいつで、どのような歴史があるか気になりますよね。
そこでここからは、きびだんごの起源や歴史について紹介しますね。
もともとは吉備津神社の名物の黍団子だった
岡山銘菓きびだんごの起源は、岡山市北区吉備津にある吉備津神社にあります。
吉備津神社は吉備国の総鎮守で、吉備津彦命(きびつひこのみこと)を祭っている神社です。
吉備津神社で供え物とされていた黍団子が、やがて参拝者向けに境内もしくは門前の茶店で振る舞われるようになりました。
吉備津神社のすぐ北側には街道の山陽道が通っていましたので、参拝客も多く、名物になったのでしょう。
吉備津神社で黍団子が供えられたのは、吉備と黍を掛けたものと思われます。
吉備津神社で黍団子が名物になったのがいつからなのかは、資料がなく定かではありません。
『岡山県大百科事典』によれば、江戸時代初期の1652年(慶安4年)の句集『昆山集』、1665年(寛文5年)の『古今夷曲集』などには、吉備津神社の黍団子に関する作品が載っているとのことです。
そのため、少なくとも江戸時代初頭には吉備津神社の黍団子は知られていたことがわかります。
江戸時代後期に岡山城下で求肥餅へ改良
きびだんごが現在のような形になったのは、江戸時代後期です。
きびだんごを現在の形にしたのは、岡山城下の廣瀬屋(ひろせや)という店の和菓子職人・武田半蔵(たけだ はんぞう)という人物。
1856年(安政3年)に、岡山藩家・老伊木三猿斎(いきさんえんさい)の助言で、吉備津神社の黍団子を茶席用の和菓子に改良します。
そして求肥餅のようなきびだんごが誕生し、「吉備団子」と命名されたのです。
吉備団子は岡山藩主・池田氏も大変気に入り岡山名物として売り出すことを許可し、岡山名物として知られるようになります。
なお、きびだんごを現在の形にした武田半蔵は、和菓子店・廣栄堂(こうえいどう)を創業しました。
現在も廣栄堂は、廣栄堂武田と廣栄堂本店にわかれて営業しています。
きびだんごと桃太郎の関係は?
現在、きびだんごの多くはパッケージに桃太郎のイラストが描かれていますよね。
でも桃太郎に出るきびだんごは、吉備団子に改良される前の黍団子です。
桃太郎と岡山銘菓のきびだんごは関係ないのではないかと思ってしまいます。
実は、岡山銘菓のきびだんごが桃太郎と結びついたのは、販売促進策のためなんです。
歴史は古く、明治時代中期にさかのぼります。
明治28年(1895年)の日清戦争のあと、広島市の宇品港に船艦が帰還しました。
そのとき武田半蔵の息子・朝次郎は、宇品港から広島駅前を桃太郎や鬼の格好をしてビラをまきながら、きびだんごを宣伝して歩いたのです。
これがきっかけできびだんごは岡山の定番の土産物となりました。
廣栄堂以外にもきびだんご製造業者が増え、明治後期には岡山市内に少なくとも12店ほどに増えたという記録もあります。
昭和時代になると、吉備津彦命が桃太郎のモデルであるという説を元に、岡山県が積極的に桃太郎を使った観光PRをおこないました。
そして現在のように岡山県=桃太郎のイメージが定着し、きびだんごにも桃太郎のイラストが描かれるようになったのです。
現在は多くのきびだんご製造業者が存在し、フルーツ味などさまざまなバリエーションのきびだんごや、パッケージ・イラストにこだわった思わず「ジャケ買い」してしまうようなきびだんごも登場しています。
さいごに
岡山銘菓として広く知られているきびだんごですが、吉備津神社にルーツをもつ歴史ある菓子だっととは驚きです。
有名な菓子も、その歴史を知れば新たな気分で楽しめるのではないでしょうか。
おみやではさまざまな菓子店のきびだんごを紹介しているので、ぜひ参考にしてみてください。
参考:きびだんごについて
【参考資料】
- 『日本大百科全書』(ニッポニカ)「吉備団子」の項 (小学館)
- 『岡山の和菓子』太郎良裕子(日本文教出版)
- 『岡山県大百科事典 上』(山陽新聞社)
- 『岡山の味風土記』岡長平(日本文教出版)