かるかん(軽羹)の名前の由来や歴史とは?かるかん饅頭との違いについても紹介
鹿児島土産の定番といえば「かるかん(軽羹)」が有名ですよね。
真っ白い色は上品なイメージで、土産にピッタリです。
そんなかるかんですが「かるかん」という名前も印象的ではありませんか?
ちょっと変わった響きですよね。
なぜ、かるかんという変わった名前になったのか気になります。
いったい、いつかるかんが誕生したのでしょうか?
そこでこのページでは、かるかんの名前の由来や歴史について紹介しますね。
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かるかんの名前の由来
かるかんとは、米粉・砂糖・ヤマノイモをすりおろしたものを加えて練り合わせ、蒸した菓子です。
白色で、四角いカステラ状の形をしていて、独特の味と舌ざわりがあります。
かるかんは、鹿児島県の銘菓として有名です。
ヤマノイモを使ってつくられるため「いもかるかん(芋軽羹)」とも呼ばれます。
そんなかるかんですが、なぜ「かるかん」という名前なのか気になりますよね。
まずは、かるかんの名前の起源を紹介します。
かるかんは、漢字で書くと「軽羹」です。
この軽羹という名前の起源は、実は2つの説があります。
- 説1:軽いあつもの(羹)という意味
- 説2:生地のきめの粗さが軽石を連想させるため
「羹」は、古代の中国で熱い汁物料理のことを指していました。
羊羹と同じように、日本に伝来した過程で変化して、軽羹=かるかんになったといわれています。
かるかんの起源と歴史
かるかんが生まれたのは、江戸時代の薩摩国(現 鹿児島県)です。
江戸後期の安政元年(1854年)、播磨国明石(現 兵庫県明石市)出身の八島六兵衛(やしま ろくべえ)という菓子職人がかるかんを考えたという説があります。
しかし鹿児島の歴史研究者・築地健吉の調べでは、江戸時代前期にはすでにかるかんが考えられていたそうです。
寛文7年(1667年)から元文3年(1738年)までの約70年間に記された、薩摩藩(鹿児島藩)の料理人・石原伝兵衛(いしはら でんべえ)の『御献立留』には、かるかんの名前が書かれています。
ただし江戸時代前期のかるかんが、現在のかるかんと同じような形状・味だったのかは不明です。
その後、江戸時代後期の安政期、八島六兵衛は江戸に菓子修業に行き、そこで現在もある菓子店「風月堂」の推薦で、薩摩藩の御用菓子匠となります。
そして鹿児島の城下町に移り、菓子店「明石屋」を開業しました。
藩主の島津斉彬(しまづ なりあきら)の命でつくった菓子が、現在のかるかんだったといわれています。
以降、現在までかるかんは鹿児島に定着し、明石屋以外にもさまざまな和菓子店がつくるようになりました。
そして、鹿児島名物と呼ばれるようになり、やがて九州各地で親しまれる菓子になったのです。
ほかにも江戸・日本橋本町の菓子店「紅谷志津摩(べにや しづま)」に残る文化7年(1810年)の目録には「軽羹 壱箱 代六匁」との記録があり、江戸の紅谷志津摩をかるかんの元祖とする説もあります。
「かるかん」と「かるかん饅頭」は違う?
かるかんによく似た菓子として「かるかん饅頭(軽羹饅頭)」があります。
かるかん・かるかん饅頭とも鹿児島名物です。
では、かるかん饅頭はかるかんとどう違うのでしょうか?
実は、こし餡をかるかんでくるんだものがかるかん饅頭なんです。
こし餡の饅頭の生地部分が、かるかんになったものともいえるでしょう。
かるかんは四角い形ですが、かるかん饅頭は一般的な饅頭と同じように、丸いドーム型をしています。
かるかん饅頭は、明治40年(1907年)に創業した東京・中央区の清月堂が元祖です。
清月堂の初代・水原嘉兵衛(みずはら かへえ)は鹿児島生まれで、上京して清月堂を開業しました。
嘉兵衛は地元・鹿児島のかるかんをヒントにし、かるかん饅頭を考えたといわれています。
その後、鹿児島でも多くの菓子店がかるかん饅頭をつくるようになりました。
さいごに
鹿児島銘菓として広く知られている、かるかん。
まさか、江戸時代からあった菓子だったとは思いませんでした。
かるかんの歴史を知ると、ひさびさにかるかんを食べたくなってきます。
おみやではかるかんを紹介しているので、ぜひ参考にしてみてください。
【参考文献】
- 『日本国語大辞典』「軽羹」の項 (小学館)
- 『日本大百科全書』(ニッポニカ)「軽羹」の項 (小学館)
- 『世界大百科事典』「軽羹」の項 (平凡社)
- 『和菓子の辞典』「かるかん」の項 (東京堂出版)
- 『百菓辞典』「軽羹」の項 (東京堂出版)
- 鹿児島土産にかるかん・かるかん饅頭を|御菓子司 明石屋